基礎生物学研究所
学生時代に「基生研」という略称にも随分と慣れ親しんだが、その後も引き続いて「総研大」という略称の組織にも随分とお世話になった。基生研にいる大学院生はこの二つの略称を使い分けなければならないが、基生研以外の総研大生と出会う機会が少ないことから「総研大」という略称になじむのには時間がかかった。
私が、総研大に入学し基生研の西村研究室に所属したのは、1993年4月のことだ。かなり前のことなので、細かい記憶がうすれてしまいがちである。長い年月がたったにも関わらず、基生研での様々な教訓は、自分自身に明確に刻みこまれている。また、卒業後たびたび出会うことになる活躍中の総研大の諸先輩、後輩たちのおかげで、基生研を離れてからも卒業生としてのアイデンティティーを失わずにすんでいる。
記憶が正しければ、私は総研大の第7期生にあたる。当時は、まだ多くの卒業生を輩出している訳でもなく、知名度もイマイチな印象で「総合研究大学院大学」がどのような大学であるか説明するのに大変苦労した。とりわけ、進学のための最大のスポンサーであった親に対しては、納得してもらえたとはとても思えない。私が総研大に入学することを決めた理由は、アットホームな雰囲気で研究室運営をされていた西村幹夫先生、西村いくこ先生のもとで自分を試したいと考えたからだ。加えて、基礎生物学研究所の設備、環境は学生の立場からはが申し分がないように思えた。研究者として、まだまだヒヨコのような学生が大きく羽ばたけるチャンスがあるかも知れないと感じたからだ。実際に、「自分自身を試せる」という直感はすぐに現実となって自分に返ってくることになる。
「基生研」すなわち「基礎生物学研究所」は、日本国内有数の研究所であり、研究の道のプロフェッショナルが沢山いる。また、プロを目指す若者が当時も沢山いた。総研大に進学せずに大学に所属したままであったら、学生の進路も多様であるので、ひょっとすると研究室での研究は取得しなければいけない単位の一つに過ぎなかったかも知れない。西村夫妻を含め、研究所のプロフェッショナルな人々と間近に接することは意義深く、そのレベルへ到達することへの距離感や困難さをひしひしと感じた。逆説的になるのかも知れないが、環境が良くなれば良くなるほど、自分自身の限度は自らが律速となることを意味する。大事なことは心の持ちようと信じたいのであるが、環境には大きく左右される。
西村夫妻の暖かいご指導のもと「シロイヌナズナにおける3種の液胞プロセシング酵素の発現からみた液胞機能のダイナミズム」という稚拙な内容の学位論文で学位を頂いた後、博士研究員としてアメリカに渡ることになる。このときに、現在の研究テーマにつながる重要な発見をすることになるのだが、博士研究員どうしでも競争になるようなアメリカ西海岸の環境で臆することなく、研究を展開できたことは、国内有数の研究所である基生研に所属していたことが大きい。当時、研究設備はアメリカの研究室より基生研の方が良かったし、方法論も決して遅れを取っていた訳ではなかった。しかしながら、サイエンスに関しては、アメリカは先進国、どのように研究を進めるかは大変勉強になった。
そうこうしているうちに、幸運にも静岡県三島市の国立遺伝学研究所の角谷研究室の助手として採用された。ここは「遺伝研」という略称で通っているが、「総研大」でもある。今度は教員の立場で総研大の学生と接することになる。とはいえ、総研大の学生に対して何かを教えたと感じたことはほとんどない。遺伝研在職時は最もサイエンスの醍醐味を楽しめた時でもあった。また、最も多くの知人、友人に巡り会えたところでもある。子供も富士山の麓の三島の地で2人とも生まれ育った。
現在、様々な場所を渡り歩いた後、2014年の4月から横浜市立大学の「木原生物学研究所」の植物エピゲノム科学部門に研究室を構えている(http://tetsu-kinoshita.jp)。木原生物学研究所にたどり着いたのは、なにか「研究所」と縁があるように思える。ここでは、横浜市立大学の3年生の後半から学生を受け入れている。何をどのように伝えていくか思案のしどころである。3年生の学生であっても、やはり研究は自分を試す試金石になると信じたい。
木原生物学研究所も、基生研、遺伝研と同様国内有数の研究所であり、木原均博士が作った研究所である。私自身はコムギを直接手がけている訳ではないが、木原均博士やその後進の研究者たちがムギ類を用いて手がけてきたテーマ、すなわち、種間交雑でのゲノムの働きに関してシロイヌナズナやイネを用いて研究を進めている。コムギは異質倍数性で、ゲノムを3セット持つ六倍体だそうだ。自分自身も様々な研究所や大学を渡り歩いたので、多種のゲノムのセットを持つコムギに親近感を覚えている。今後の研究展開が楽しみな環境でもある。
(2015年 3月記)