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大学共同利用機関法人 自然科学研究機構

基礎生物学研究所

修了生の声

修了生の声 赤間一仁さん (島根大学生物資源科学部 教授)

 

新設の総研大、1期生として入学

akama.jpg 私は平成元年(1989年)に総研大の1期生として基礎生物学研究所(基生研)の生命科学研究科分子生物機構論専攻(博士課程)に入学した。基生研の同期は私を含めて6名で、皆修士課程までとは違った研究を志向し、この新しい大学院大学に飛び込んできた。出身は医学部、工学部、薬学部、理学部、酪農学部と様々であった。理学部出の私は以下のような経緯で入学した:出身大学で卒論と修士課程の研究テーマは高等植物を材料とした核tRNA遺伝子のクローニングと塩基配列の決定であった。今では考えられないことであるが、当時は組換えDNA操作が普及しだした頃であり、遺伝子クローングとシーケンシング (C & S) がりっぱな研究テーマになりえた時代であった。この3年間は本当に良く実験をした時期であったが、さしたる成果も得られないまま修士課程を修了し、1年間研究生として同じ大学に残った。修士課程の終わりに、たまたま東京で開催された科研費の成果報告会議にスライド係として駆り出され、東大の先生から「シロイヌナズナ」というモデル植物がアメリカで注目を集めていることを聞かされた。興味を持ち、文献を集めこの植物について勉強した。また、指導教官にお願いして、シロイヌナズナの種子やゲノムDNAライブラリーを取り寄せ実験を始めた。当時、私が所属する大学にはシロイヌナズナを専門とする研究室は勿論なく、調べて見ると、国内では宮城教育大学、東大遺伝子実験施設、そして基生研の志村研究室の3つだけであった。基生研の志村研究室ではシロイヌナズナの花の形態形成に関わる変異株を多数単離し、その遺伝解析を世界に先駆けて進めていた。次年度より総研大として学生を募集するという。C & Sの実験に一区切りついたこともあり、「シロイヌナズナ研究」に賭けてみることにした。

 

志村研究室での研究生活

 1986年から基生研でシロイヌナズナの分子遺伝学を始めた志村先生は、京都大学ではショウジョウバエを用いて性特異的なオルタナティブ・スプライシングの研究を精力的に進められていた。多忙な中、志村先生はポストドクや我々学生の進捗状況を把握するために月一のペースで岡崎に来られた。ラボの実質的な運営は岡田清孝先生(現・基生研所長)が取り仕切っていた。当時、4名のポストドク(平野雅則さん、白石英秋さん、C.J.ベルさん、小牧正子さん)がそれぞれ独立のテーマで研究を進めていた。私と同期の岡本さん、1年後に阪本さん、2年後には伊藤君、矢野さんと、既存の大学では出来ない研究を求めて全国から学生が続々と集まってきた。国内的にもシロイヌナズナへの関心が少しずつ高まり始めた時期で、岡崎はある意味、シロイヌナズナ研究の国内拠点として知られるようになった。小牧さんが花器官の変異株の論文を1988年にDevelopmentに発表し、その少し後に岡田先生が根の成長異常を示す変異株の論文をScience (1990)に発表したが、当時遺伝子変異をDNAレベルで特定することは不可能に近く、いかにして原因遺伝子にたどり着くかがシロイヌナズナ研究者の最大の関心事であった。このような中、米国Meyerowitzの研究グループにより、シロイヌナズナのアグロバクテリウムを介した形質転換体のコレクションの中から、花の突然変異体であるagamousの原因遺伝子が、挿入されたT-DNAを目印(タグ)として単離されたことは大きな衝撃であった (Nature, 1990)。

 当時シロイヌナズナの形質転換系は十分に確立されたとは言えない状態であった。実験系の改良により高頻度な方法を確立し多数の形質転換体を作出すれば、ゲノムが小さいシロイヌナズナでは様々なT-DNA変異株を作出することができるのではないか。入学してから1年間ほど試行錯誤して、自分で決めたテーマが「シロイヌナズナの新しい形質転換系の開発」であった。勿論、この過程で岡田先生、白石さんから様々なアドバイス、植物形質転換に関する有用な沢山の資料を戴いた。岡田先生や白石さんを含めてラボメンバーは,Plant Scienceに新たに参入された方々であり、そのような場合、幅広く集めた最新の情報が研究の成否を握る鍵であることを痛感した。また、基生研が拠点であったために、世界中から多くのシロイヌナズナ研究者が岡崎に立ち寄られ討論したことも、最新の研究成果を知る上で大きなアドバンテージであった。

 

形質転換実験と博士論文の作成で学んだこと

 大学修士まで、クローニングとシーケンシングしかしたことがなかったため、植物の組織培養とアグロバクテリウムを扱った経験は勿論皆無であった。恐る恐る形質転換実験を始めたものの、実験として形をなすまでに大分時間が掛かったことを憶えている。始めは、何度試みてもアグロバクテリウムのカルス感染が確認できず、3年という時間で本当に学位が取れるのか焦りに焦った。実験が暗礁に乗り上げ、苦しい思いを何度も経験した。それを克服するために、とにかく時間を掛けてよく考えた。そして、泥臭く、検討すべき条件を出来るだけ枚挙し、丁寧に評価することを行った。最終的に、用いる材料(感染に使うアグロバクテリウム株、感染のためのシロイヌナズナ組織)、組織培養条件を細かく検討し、至適な材料と培養条件を組み合わせることで、極めて簡便な遺伝子導入系を完成させることができた。この方法は芽生えの胚軸を用いることから「胚軸形質転換法」と呼ばれ、1990年代にシロイヌナズナの標準的な形質転換法として国内の多くのラボで採用された。これは開発者としては大きな喜びであった。その後、シロイヌナズナの形質転換法はフランスのグループがより簡便でスケールアップ可能なin planta形質転換法を開発し、シロイヌナズナのT-DNAタグライン、アクティベーション・タグラインなど、現在日常的に利用されている様々なタグラインを作出する上での大きなブレークスルーへと発展した。

 学位論文を作成する過程では、研究者として踏み出す上での大きな礎と糧を得ることができた。私の場合、志村先生の代わりに藤田善彦先生が主査を、村田紀夫先生、西村幹夫先生、そして岡田先生が副査をご担当された。学位論文の作成から審査までの時期、自分の人生の中で最も苦しい、正に逃げ出したくなるような時期であったが、同時に先生方からの御助言は今でも心にずっしりと重く残っている。志村先生や岡田先生はこの「出来の悪い1期生」を忍耐強く叱咤激励してくれた。藤田先生からは「研究を進める上での広い視野」、村田先生からは「サイエンスの根幹であるロジック」、西村先生からは「研究のオリジナリティー」を、学位論文発表会直前まで徹底してたたき込まれた。今でもこの時期を思い出すと、身体が緊張する。自分の人生を振り返ると研究者としての原点は、やはりここにあることを強く感じる。

 

岡崎での生活、藤田先生の想い出

 東京や大阪のような大都市で大学生活を送った学生にとって、岡崎は遊ぶところの少ない地方都市に写る。私も初めて岡崎を訪れたとき、そう感じた。去年20年ぶりに岡崎を訪ねたが、名鉄東岡崎駅周辺は、あまり変わっておらず、懐かしさを通り越して、ビックリしてしまった。基生研のある東岡崎周辺には大学はなく、学生が通常の学生生活をエンジョイすることはそもそも期待できなかった。後から思ったことであるが、ヨーロッパでは岡崎(30万人)くらいの規模の街にしっかりとした大学や研究所がごく普通に存在する。大都市特有のせわしない時間と狭い空間から解き放たれた、長い歴史と文化が香る城下町岡崎は、サイエンスをする場としては、日本の中では随分と恵まれた土地なのではないだろうか。

 主指導教官であった藤田先生(2005年にご逝去)には特別な想いがある。学位論文の指導だけでなく、藤田研の論文ゼミにも出させて頂き、随分と鍛えていただいた。学期のセミナー最終回の夜には決まって、メンバー全員をご自宅のある官舎に招待してくださった。学生皆がいつも心待ちにしているイベントであった。藤田研のメンバーと総研大の学生(志村研と西村研)に、お寿司とビールの大盤振舞である(時々、岡田先生と志村先生も参加された)。冬場は、自称「おでん博士」の先生が自ら時間を掛けて調理された関東炊きのおでんを美味しく戴いた。夕方7時頃から始まり、腹一杯飲食し、研究のこと、サイエンスのこと、論文のこと、留学先での裏話等々、延々と話が続いた。何も飲食する物がなくなっても朝方まで熱く議論したことは生涯忘れることのできない思い出である。

 

フリードリヒ・ミーシャー研究所から島根へ

 3年間の研究過程で、研究の興味がシロイヌナズナからアグロバクテリウムにシフトした。アグロバクテリウムを用いたシロイヌナズナ形質転換系をD2の終わりに確立し、約1年間組換え系統を1,000ライン程作ったにも関わらず、めぼしい変異体が取れなかったことも一因としてあった。1977年にバクテリアから植物細胞への天然の遺伝子転移が報告されて以来、アグロバクテリウムは植物遺伝子工学の重要なツールとなっただけでなく、どのような機構によりT-DNAは植物細胞に輸送し、核ゲノムに組み込まれるのか多くの謎が残されていた。この現象に魅せられ、学位取得後、学振の特別研究員としてフリードリヒ・ミーシャー研究所(バーゼル・スイス連邦)のB. Hohn研究室に留学し、T-DNAボーダー配列のゲノム組換えにおける機能解析に従事した。滞在のかなり早い段階で、出身大学時代の指導教官から話しがあり、現在の島根大学(当初理学部生物学科)に赴任が決まった。

 1993年4月に島根に来てから、1年間はB. Hohn研で進めていた研究を続け、その後、出身大学時代のマイナーなtRNA研究を再び始めた。学科は大講座制に移行して風通しは良かったが、たった一人で研究費の獲得もないまま1年間留学先の研究テーマに固執したが、これ以上持久戦が続くと完全に干上がってしまうと感じたからである。とにかく、地方大学で研究者として生き残るにはどうすれば良いかを必死に考えた。植物tRNA研究は幸い、中断してからほとんど進展がなく、今から再開しても追いつける。tRNAは単一の遺伝子族ではなく、多様かつヘテロな遺伝子族を形成しているために、地味に構造解析をすれば鉱脈に当たるかもしれない。ほどなくして、偶然にも植物特有のtRNA構造(TΨCループの保存塩基に置換が見られるものや、イントロンを有するもの)を見つけ、国内外のtRNA研究者とtRNAイントロンの構造・機能解析、スプライシング機構の解明を進めてきた。最近ではスプライシング反応に関わる酵素が核だけでなく、葉緑体にも局在することを発見し、その新規な機能を探っている。これに加え、1995年本学の理学部・生物学科は農学部と融合し、新学部である現在の生物資源科学部が創設された。これを機にイネを用いた研究を始めた。機能性成分として知られるGABAは非タンパク質態のアミノ酸の一種であり大腸菌からヒト、イネにいたるまで普遍的に存在する。GABAはグルタミン酸の脱炭酸反応により合成されるが、この反応を触媒するグルタミン酸脱炭酸酵素 (GAD)は植物の場合、C末端にカルモジュリン結合部位 (CaMBD)を持ち、様々なストレスに応答した細胞内カルシウムイオン濃度の変化がGADの活性調節に関わっている。偶然にもCaMBDを持たない新規なイネGADを発見し、国際的にも注目を浴びた。現在、その機能解析から分子育種への応用(http://cropgenome.project.affrc.go.jp/chumoku/04.html)まで研究の幅を広げて現在に至っている。

 

総研大への期待

 島根大学は人口20万人程の松江市にある。松江城を中心に城下町の雰囲気が残る街はどこか岡崎と似ており、江戸時代初期から幕末までこの地を治めた松江藩・松平家は徳川家とつながる(歴代の藩主が眠る月照寺には石碑を背負った大亀があり、岡崎城にあるものと瓜二つである)。赴任して今年で20年目にあたり、この間、学部改編に伴う新学部創設、島根医科大学との統合、法人化など、本学も大きく変化した。入学してくる学生の気質も変わり、何より自分の子供と同世代の若者が入学するようになった。総研大を含めて自分自身の大学時代を振り返ってみると、研究環境が空気のようにしっかりと整備されていたことに今更ながら感心する。大学にいると、研究室を持ち、研究環境を維持することの大変さが身にしみて良く分かる。また、恩師の先生方は私が迷っていたときに、知らない間に後ろからそっと肩を叩いて諭してくれたのだとつくづく思う。大学院担当の教員でもある今となっては、基生研のように恵まれた研究環境、第一線級の教授陣とスタッフ・研究員、充実した教育カリキュラムは地方大学で孤軍奮闘する教員にとって、大きな脅威以外の何物でもないが、かつて自分がそうであったように、新しい研究分野に積極的に飛び込んで行きたいと思う多くの学生にとって、基生研は今でも心躍る研究施設であり、将来もそうあって欲しいと強く願う。

 

(2012年 9月記)
 

赤間一仁さん 略歴

1988年 : 北海道大学大学院 理学研究科 修士
1992年 : 総合研究大学院大学 生命科学研究科 博士(理学)
1992-1993年 : フリードリヒ・ミーシャー研究所(バーゼル・スイス連邦)博士研究員
1993年 : 島根大学 理学部 助手
1995年 : 島根大学 生物資源科学部 助手
2004年 : 島根大学 生物資源科学部 准教授
2012年-現在 : 島根大学 生物資源科学部 教授 
 研究室ホームページ: http://www.ipc.shimane-u.ac.jp/akama-lab/index.html