江口吾朗先生(基礎生物学研究所 名誉教授)がご逝去されました。
巨匠逝く --江口吾朗(基礎生物学研究所・名誉教授)を偲ぶ--
阿形清和 基礎生物学研究所第9代所長
私には二人のボスがいた。そう、発生生物学分野の長嶋茂雄(岡田節人)と野村克也(江口吾朗)の2大スターだ。二人は京大・理学部が新設した生物物理学教室の1つの講座(研究室)の教授と助教授(今でいうところの准教授)だった(助手は後に理研CDBのセンター長となる竹市雅俊氏と奈良先端大学院の学長となる安田國雄氏という強力な布陣だった)。そして、1970代初頭に色素上皮細胞がレンズ細胞に分化転換すること(今でいうところの細胞のリプログラミング)をクローン培養(1個の色素上皮細胞を培養しているうちに増殖・リプログラミングしてレンズ細胞へと変身していく)で証明して一世を風靡した。世界に通用する日本最強のタッグだった。そんな京都大学の研究環境に憧れて、東京出身の私は京都大学・理学部に入学し、岡田節人・江口吾朗のコンビの凄さの薫陶を受ける。当然、世間は、岡田と江口のどっちが、ジョンレノンでポールマッカートニーなのか、あるいはサイモンとガーファンクルなのかを話題にした。しかし、二人を良く知る私には、長嶋茂雄と野村克也だった。ホームランの数は野村克也の方が多いのに天覧試合でホームランを打った長嶋茂雄をマスコミは取り上げた。そして、そんな状況を皮肉って野村克也は自分のことを月見草と呼んだ。
江口さんが京大の助教授から名古屋大学の教授、そして基礎生物学研究所の教授になる過程で、色素細胞からレンズ細胞になる現象は江口吾朗の看板とし、網膜神経細胞がレンズ細胞になる現象は岡田節人の看板として暖簾分けをする(もともとイモリが虹彩からレンズを再生する現象に着目していたのは江口吾朗氏であった)。そんな状況下で、京大の岡田研究室で博士課程の3年だった筆者が、基礎生物学研究所の江口吾朗研究室の助手に呼ばれたのは1983年の冬だった。色素上皮細胞からレンズ細胞へ分化転換(リプログラミング)の遺伝子レベルでの解析をミッションとして基礎生物学研究所の助手に呼ばれた。就職氷河期だったので、ありがたい話だった。
しかし、当時の基礎生物学研究所の2代目所長(金谷晴夫氏)がガンで急逝してから、状況は一変した。何と、3代目の所長として岡田節人氏が突然、基礎生物学研究所の所長に抜擢されたからだ。私は、長嶋茂雄と野村克也の二人のボスを再び擁することになる。岡田節人と袂を分かった江口吾朗には耐え難い状況だった。折角、自分の天下を作ったのに、目の上のタンコブだった岡田節人が突然登場したのだから、、
そして、岡田節人氏は所長退任後に岡崎国立共同研究機構の機構長となり、江口吾朗氏は熊本大学の学長へと昇りつめていく(30年後に自分が基礎生物学研究所の所長になるとは、その頃は想像だにしてなかった)。私が所長に就任した2日後に江口吾朗氏は永眠した。私には、人生の不思議さを感じずにいられなかった。巨匠、江口吾朗氏に合掌。天国でもイモリのレンズを抜いているに違いない(天国で再び二人はタッグを組んで世界を制しにいってるかも、、)。
二人の巨匠(江口吾朗(左)と岡田節人(右))